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高松 凌雲(たかまつ りょううん、天保7年12月25日 (旧暦) 12月25日(1837年1月31日) ? 大正5年(1916年)10月20日)は、幕末期の幕府の奥医師。名は権平。荘三郎。石川桜所・緒方洪庵・ヘボンのもとで蘭学や医学を学んだ。そのため、西洋医学に広く通じることとなり、幕府から奥医師として登用されることとなった。1868年からの戊辰戦争では榎本武揚と共に箱館まで赴き、そこで箱館病院を開院して、敵味方の区別なく負傷者の治療に務めたと言われている。このため、榎本らが降伏したときに凌雲が罪に問われることはなく、凌雲は間もなく東京に戻って病院を開院した。1879年、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設し、100万人にも及ぶ貧民の救済に尽力した。

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日 (旧暦) 8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日 (旧暦) 4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期、幕末の長州藩の尊王倒幕志士。奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。正四位。長門国萩城 萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に萩藩 萩藩士 高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男としてうまれる。10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、1852年に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。1857年には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、1858年には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。1859年には吉田松陰が安政の大獄で捕らえられ処刑される。1860年11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚。閏3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。62年には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、54年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
『国司親相』より : 国司 親相(くにし ちかすけ、天保13年6月15日 (旧暦) 6月15日(1842年7月22日) ? 元治元年11月11日 (旧暦) 11月11日(1864年12月9日))は、「国司信濃(しなの)」の名で知られる幕末期の長州藩の家老。名は朝相とも。通称は熊之助。寄組藩士・高洲元忠の次男として生まれる。同じく寄組藩士5600石の国司迪徳の養嗣子となり、1847年に家督を継いで大組頭となった。家柄も去ることながら、信濃は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、1863年には長井雅楽の切腹検視役正使を務めている。1863年5月10日、信濃は久坂玄瑞らと共にアメリカ船を砲撃した事件に参加した。この功績により、信濃は下関防備総奉行に任じられる。しかし8月18日の政変で長州藩が京都から追放されると、信濃は家老に昇格した上で、同じく家老の益田兼施や福原越後、さらに久坂らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、禁門の変を引き起こした。しかし薩摩藩・会津藩連合軍の前に大敗し、信濃は長州に逃げ帰った。